ファッションなど、流行は模倣を前提にしている。真似られなければ、ファッションなど成立しない。ミニスカートをデザインしたとしても、特定のデザイナーのものだけが売れるのでは、流行にはならない。多くの者が模倣してはじめて流行は成立するため、ファッションなどには、模倣を誘発させようとする意図が最初から織り込みずみだ。
(浜野保樹『模倣される日本――映画、アニメから料理、ファッションまで』による)
以下は、ある会社で回覧された文書である。
営業部社員 各位
2012年6月27日
総務部長
業務用携帯電話の貸与について
このたび、業務用携帯電話を貸与することにいたしましたので、貸与申請書を7月10日までに総務部にご提出ください。業務用携帯電話は、7月17日以降順次配付いたします。
また私物の携帯電話の業務使用は、8月1日以降禁止とします。7月31日までの通話料金の請求書類は、8月31日必着で総務部にご提出ください。
情報化、グローバル化と言われ、視野を広げるべき時代に、実は極めて限られた世界、社会でしか情報や価値観を得られていない人が増えているように思えます。インターネットは世界中どこにでもつながりますが、自分で意識しないと、限られた価値観の情報だけが集まり、さらに深く入り込む。世界観を広げるインターネットが、逆に世界観や価値観を狭めてしまう、視野狭窄(注)に陥らせる道具となってしまうのです。
(注)視野狭窄(きょうさく):見える範囲が狭くなること
(伊藤真『会社コンプライアンス――内部統制の条件』による)
この社会にはどこかに中心があって、自分はその中心から遠く離れたところに押しやられ(注1)ていると感じている人は多い。しかし、私は私自身の「生きる意味」を創造し、私の生きる世界に意味を与える存在なのであり、世界の中心は私自身にあるのだ。しかし、それは「自己チュー」(注2)の世界ではない。なぜなら、私自身が意味を生み出す中心であることを認めるとき、私たちの周りには私だけでなくたくさんの中心があることが分かってくるからだ。
(注1)押しやる:押してどける
(注2)自己チュー:自己中心のこと。自分のことしか考えないこと
(上田紀行「生きる意味」による)
私は、「どうしたらわかりやすく伝えられるか」ということを常に考えています。
その一方で、「話を単純化しすぎてはいけない」ということも胆に銘じ(注1)ています。
この兼ね合いが、結構難しいのです。扱うテーマに関して勉強を積み重ね、知識が増えるほど、難しくなります。生半可(注2)にしか知らないときのほうが、簡単にざっくり(注3)単純化できたりします。でも、そのために結果として、全体像が見えずに歪んだ像を示したり、事実とニュアンスが違ってきてしまったりすることにもつながります。これはとても①怖いことです。
それを防ぐには、どうしたらいいか。(中略)
まず、調べたいことを勉強して、誰かに話してみます。簡単に話ができたら、要注意。学部生レベルである可能性が高いからです。そこで満足せずに、さらに深い勉強をしてみましょう。すると、あら不思議。急に話が難しくなります。これが大学院生レベルです。いわば②「わかりやすい説明」に至るスランプのようなものです。
そこで挫折せず、さらに勉強を深め、「この話のキモ(注4)は何なのか」を考え抜きましょう。すると、ある日突然、自分でも驚くほど、わかりやすい説明ができていることに気づくはずです。あなたは、その分野で、晴れて「指導教授」の立場まで成長したのです。学部生レベルの人の説明の間違いを訂正してあげることもできるようになったことでしょう。
最初の単純化で満足せず、さらに高みを目指すとスランプに陥る。そこを突破すると、「わかりやすい説明」が可能になる。このプロセスが、キモなのです。
(池上彰『<わかりやすさ>の勉強法』による)
(注1)胆(きも)に銘(めい)じる:決して忘れないようにする
(注2)生半可:中途半端
(注3)ざっくり:大まかに、粗く
(注4)キモ:最も大事なところ
児童文学の多くは、子どもの視点で書かれています。もちろん作者は大人なのですが、子どもの考え方や、子どもの目の高さから見える風景を描いています。当然のことながら大人が読む場合、そこにどうしても①視点のズレが生じます。
けれど大人はみな、昔、子どもでした。子どもを卒業して大人になったと思っているのが、子どもだった自分を抱えたまま大人になったと思っているのかは人それぞれでしょうが、少なくとも、だれもが子ども時代を過ごしてきています。大人の視点で読みながら、子どもの頃の視点を思い出すことは可能です。自分の中の子どもに寄り添って、一緒に読むとでも言えばいいでしょうか。
子ども時代に読んだ本を再読すると、同じ場面なのに、子どもの頃の自分と今の自分とでは、感じ方や受け取り方がちがうのに気づくことがあります。それは今の自分が、自分の心の中にいる子どもと向かいあう一瞬です。そうした機会に、今の子どもたちへのまなざしを新たにすることもあるでしょう。たとえば、「近頃(ちかごろ)の子どもにはこまったものだ」と文句を言っていたけれど、子どもの頃の自分はどうだったのか?と問い直す。大人であることにあぐらをかいていた(注)自分を省みる。そんなことが起こるかもしれません。
②どうぞ、「子どもの本」を開いてみてください。
(注)あぐらをかいていた:ここでは、何の疑問も感じずにいた
(ひこ・田中『大人のための児童文学講座』による)
ファースト・フードが世界中にひろがったのは、文化や人間の集合状態に変化が起こっていたからである。家族はこれまでほど安定したものではなくなったし、私的な生活、労働や遊びのパターンも個人的かつ多様になっていたのである。人間の接触が煩わしいものに感じる傾向も増大した。食事がもつ楽しみは感覚と社交の至上の快楽ではなくなった。それは他の行為のあいまに挿入されるものとなることが多かったし、それと平行して人間は食事を簡便に済ませることを望んだことも考慮すべきであろう。
(中略)
もちろん都市の食文化にとってファースト・フードが占める位置は、コンビニが買い物行動にたいして占める位置と同様、全面的ではない。しかし多種多様なレストランがいたるところに叢生(注1)してくるなかに、ひとつの均質化する力として割り込み、かつローカルな都市を世界的な規模にまでひろがった同一の網目に組み込むことは、無視できない力の兆候的現象なのである。
おそらくこうしたファースト・フードの経験は、意識されていることがら以上に、ほとんど意識されない感覚的な影響の方が大きいだろう。かつての食の内容からみると、貧困としかいいようのないメニューに慣れること、あえて社会的関係を破壊しようとしないでも、人びとはファースト・フードの利用によって、いつのまにか都市の遊民(注2)になっていくこと、そしてこの食形式の共有によってわれわれは奇妙なかたちで、われわれ自身をいつのまにか世界化していくこと、などである。
(多木浩二『都市の政治学』による)
(注1)叢生(そうせい)する:ここでは、多くできる
(注2)遊民:ここでは、社会的関係をもたない人