(1) 現代、恋愛は、通常は部分でしか他者とかかわり合いをもたない個人にとって、例外的に全人格と全人格とのぶつかりあいを経験する、特別な関係なのであろうか。それとも、「全人格的」というのは幻想で、恋愛もまた互いに自己のある一面を見せあう、部分的関係の一例か。これはもちろん、そのどちらなのか、という問題ではなく、個々の恋愛はこの振幅のどこかにあるということになるだろう。だが、趨勢(注)としては後者の方へと振れてきているのではないだろうか。
(注)趨勢:傾向
(草柳千早「AERA MooK」1999年7月10日号による)
(2) これから起こる社会の変化を読みとるのは難しい。しかし、その変化を見極めて将来に対する指針をもたなければ、激しく変化する社会のなかで自分を見失ってしまう。歴史学は、この時代の変化を長い時間のなかにおいて見据え、社会の進む方向を教えてくれる学問である。けっして、過ぎ去った過去を記憶したり、なぞったりする学問ではない。ゆるやかに流れる時代にあっても激動する時代にあっても、歴史学は私たちの行く(注1)手を照らす一条(注2)の光なのだと思う。
(注1)行く手:行く先 (注2)一条:一筋
(高山博『歴史学 未来へのまなざし――中世シチリアからグローバル・ヒストリーへ』による)
(3) 昔も今も、才覚というのは一定の軌道から飛び出してゆく能力のことで、みんなにそんな例外的な能力が備わっていたら、そもそも大地にはりつく農業も、分業で成り立つ産業社会も有り得ない。いつの世も、才覚のある者が新しいビジネスを起こしてゆくのは事実だが、それをビジネスとして成立させるのは社員の労働とであるし、それがなければ起業者の才覚が活きることもない。
(高村『裏人生――平成雑記帳二〇〇七―二〇〇九』による)
(4) 今の世には明るいものは余りに少なく、暗いものは余りに多く見えるが、両者は別個のばらばらではない。絶望と見える対象を嫌ったり恐れたりして目をつぶって、そこを去れば、もう希望とは決して会えない。絶望すべき対象にはしっかりと(注1)絶望し、それを克服するために努力し続ければ、それが希望に転化(注2)してゆくのだ。そうだ、希望は絶望のど真ん中の、そのどん底に実在しているのだ。
(注1)しっかりと:しっかり (注2)転化:変化
(むのたけじ『希望は絶望のど真ん中に』による)
(2) 書を読むという行為が、人間の成長や知的能力の向上に必須のものであることを、かつての社会は経験法則的に理解していたのではないだろうか。素読(注1)などは強制的、修養(注2)的なものではあるが、読書習慣の形成を何よりも重視する教育メソッド(注3)であったことは確かである。しかし、①私たちの世代はどうであろうか。書物というものが映像や音響メディアなどと単純に比較することを許さない必需品であり、読書は基本的な能力であるという確信をいだいてきたものの、近年の社会経済のあり方によって自信を喪いかけていたことは否めないのではなかろうか。
活字以外の表現手段が大きな影響力をもつようになったことを②「時代の流れ」と呼ぶのはいいが、文化の変容があまりにも急激なこと、あるいは一つの有力な文化が別のものに置き換えられることには予測しがたい弊害を伴う。活字にもいろいろあるが、書物に特有の楽しみを与えてくれる本、思索の喜びをもたらしてくれる本、人生の支えになるような本が相対的に少なくなったのは、1980年代の半ばごろからで、書店の棚には情報的な本や、映像文化の書籍化をねらった寿命の短いものばかりが目立つようになった。家庭からはスペースの狭さをいいわけに、本棚が姿を消してしまった。
ちょうどそのころから映像文化や活字文化の本質を考えるメディア論が盛んになったが、いまから思えば従来の活字文化が衰弱した場合にどうなるかという洞察力において、いささか欠けるところがなかっただろうか。
(注1)素読:ここでは、意味を考えずに、声を出して読むこと
(注2)修養:学問を修め人格を高めること
(注3)メソッド:方法
(紀田順一郎『読書三到――新時代の「読む・引く・考える」』による)
(3) 現在、不安定化する社会におけるさまざまなリスクが個人を直撃しています。かつてであれば個人の属する集団や組織が、リスクを受け止めるのを支えてくれました。ところが、いまではそのような支えを期待することは難しくなっています。現代における不平等は個人単位で現れるのです。しかもその場合、不安や不満を抱えた人々は、同じような立場に置かれ、似たような思いをもった人々と連帯することが①けっして容易ではありません。外から見れば、どれほど共通の傾向が見られる問題でも、一人ひとりの個人にはどうしても〈私〉の問題に見えてしまうからです。(中略)平等化社会を生きる個人は、それぞれが自分の〈私〉の意識をもっています。その意味でいえば、誰一人、他者の意のままにその存在を否定されるほど弱くありません。もし、社会が自分の存在を認めないのなら、逆に、自分もそのような社会を認めないというのが、現代における個人の典型的な自意識といえるでしょう。反面、②そのような個人は自分一人で自己完結できるほどには強くありません。自分が〔同類〕のうちの一人に過ぎないことを痛いほど自覚している平等化社会の個人は、それゆえに他者をつねに意識せざるをえないのです。
そうだとすれば、一人ひとりに固有な〈私〉にこだわりつつ、それでも自らの不完全性を日々感じている個人にとって、自分の自分らしさを確認するためにも他者が必要なはずです。その場合の他者とは、自分の身の回りにいて、相互に承認を与え合うような他者ばかりでなく、自らに位置と役割を与えてくれる社会もまた、重要な他者にほかなりません。
(宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』による)